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大学6年目、大学生最後の冬。
神岡新道から北ノ俣岳に登り、黒部五郎、三俣蓮華と縦走して三俣...

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大学6年目、大学生最後の冬。
神岡新道から北ノ俣岳に登り、黒部五郎、三俣蓮華と縦走して三俣山荘に12月30日に到着。翌日からはしっかりと冬型が決まりそうな天気図だった。冬期小屋はすでに雪で埋まっていて使用できず、山荘を風防にしてテントを設営した。
31日、1日、2日とテントで停滞。
嵐は勢いを増していた。
1月3日早朝、寝ていたテントのポールが一瞬でバキバキに折れた。急いでシュラフから抜け出し、装備を整えて山荘近くの吹き溜りに雪洞を掘り始めた。
昨晩の天気図は絶望的であった。
完璧に決まった強い冬型は、どうやらしばらくは解消されそうにない。こんな小さな雪洞では、とても何日も避難することはできないだろう。

とにかくすぐに行動に移さなければ命に関わる。

意を決した我々は、母屋の裏にあった建物(診療所部分)の冬囲いをピッケルで丁寧に外し、その中に全員が逃げ込むことができた。

いつ終わるか分からない嵐。
日本の東に抜けた低気圧は猛烈に発達した上に動く気配がない。ラジオでは友人が黒部で雪崩で逝ったニュースが入る。燃料を節約して食い伸ばしをし、とにかく嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
北アルプス最奥の地。
どこに逃げるにしてもたっぷり2日は必要だ。天気もできる限り安定してほしい。とにかく我々は待つしかなかった。

1月6日
昼頃からようやく動けそうな気配となった。
装備を整え、鷲羽岳を越える。暴風であったが、ふと顔を上げると富山県警のヘリが飛んでいた。我々の無事を確認しに来てくれたに違いない。夜9時前に野口五郎小屋に無事到着。そして翌7日に一気にブナ立て尾根から下山した。

下山後、伊藤正一さんのお宅に伺い、冬囲いを外して逃げ込んだ顛末を報告して謝罪をした。ところが「大変だったね、ご苦労さま」と穏やかににこやかに許してくださった。
あの小屋がなかったら、我々はどうなっていたかわからない。
僕は下山後、塹壕足となって歩けなくなり、ご挨拶に伺えなかった。しかし伊藤正一さんに助けられたという思いは今も変わらない。

久しぶりに報告書を読んでみたけど、20年前の冬は今と違って冬らしかったと思う。北アルプスなんて、天気のいい日は殆どなかった。

その時の報告書がこちら↓
http://arayo.jp/kiroku/2000/2000fuyugasshuku.pdf


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